空手の起源に関しては諸説あるが、主なものは下記の通りである。
「田舎の舞方」からの発展説
舞方(メーカタ)とは、琉球語で踊りの意味である。田舎の武術的要素をもった琉球舞踊から、沖縄固有の武術「手(ティー)」が生まれ、空手へと発展したとする説。安里安恒やその弟子の船越義珍はこの説を唱えている安里安恒談・富名腰義珍筆「沖縄の武技」(『琉球新報』1913年1月17-19日記事)。
久米三十六姓導入説
那覇の久米村(クニンダ)に、1392年、当時の明の福建省から「ビン人三十六姓」と呼ばれる職能集団が移住してきたとされる。彼らは琉球に先進的な学芸、技能等をもたらしたが、この時、空手の起源となる中国拳法も同時にもたらされたとする説。ただし当時は中国でも拳法は未発達であったことが知られており、近年ではこの説は疑問視されることも多い。
海洋貿易輸入説
かつて琉球の人々は中国のみならず、広く東南アジアなどの国々とも貿易を行っていた。これらの地域には、空手や琉球の武器術と類似した武術が存在する。貿易を通して、これらの国々の武術が伝来しながら、沖縄固有の武術「手」が独自に発展したとする説外間哲弘編著『空手道歴史年表』10頁参照。
他にも、シマ(沖縄相撲)からの発展説、本土から柔術が伝来した説などがある。いずれの説も、明治以降の空手家、研究者の唱える説であって、それぞれの説を裏付ける明確な歴史資料が存在するわけではない。
琉球王国時代
唐手佐久川の以前と以後
琉球の歴史において、唐手の文字が初めて現れるのは、唐手佐久川(トゥーディーさくかわ)とあだ名された、佐久川寛賀(1782年 - 1838年)においてである。佐久川は28歳(1806年)の時、当時の清へ留学し、北京で中国武術を学んだとされる。この佐久川が沖縄本島に持ち帰った中国武術に、以前からあった沖縄固有の武術「手(ティー)」が融合してできたものが、今日の空手の源流である唐手であったと考えられる。
佐久川以降、「手」は唐手に吸収・同化されながら、徐々に衰退していったのであろう。一般に空手の歴史を語る際、この唐手と「手」の区別が曖昧である。それゆえ、狭義の意味での唐手の歴史は佐久川に始まるが、「手」も含めた沖縄の格闘技全般の唐手の歴史は、もちろんそれ以前にさかのぼる。以下、広義の意味での唐手(空手)の歴史について叙述する。
禁武政策の虚実
伝我謝盛保筆『我謝親方弓射図』(19世紀初期)。剣術、槍術、弓術は琉球貴族のたしなみであった。禁武政策と空手発展の因果関係は、近年、疑問視されることが多い。
琉球の沖縄本島で空手が発展した理由として、従来言及されてきたのが、二度にわたって実施された禁武政策である。一度目は尚真王(在位1476年 - 1526年)の時代に実施され、このとき、国中の武器が集められて王府で厳重に管理されることになった。二度目は慶長14年(1609年)の薩摩藩による琉球侵攻後に実施された禁武政策である。二度の禁武政策を通じて、武器を取り上げられた人々が、薩摩藩に対抗するために空手を発展させたとする説が、従来、歴史的事実であるかのように繰り返し言及されてきた。
しかし、禁武政策と空手発展の因果関係については、近年、これを疑問視する研究者が少なくない。特に薩摩藩の実施した禁武政策(1613年の琉球王府宛通達)は、帯刀など武器の携帯を禁じただけで、その所持まで禁じたものではなく、比較的緩やかな規制であったことが判明している。
この通達は「一、鉄砲の所持禁止。二、王子・三司官・士族の個人所有武器の保有は認める。三、武器類の修理は在番奉行所を通して薩摩にて行う事。四、刀剣類は在番奉行所に届け出て認可を受ける事」という内容であり、武器の所持(鉄砲を除く)やその稽古まで禁じるものではなかった儀間真謹・藤原稜三『対談 近代空手道の歴史を語る』43頁参照。。実際、薩摩侵攻後も、琉球の剣術、槍術、弓術などの達人の名は何人も知られている。また、素手で鉄砲や刀などの武器に対抗するという発想そのものが非現実的であり、このような動機に基づいて琉球士族が空手の鍛錬に励んだとは考えられない、との指摘もある。それゆえ、禁武政策による空手発展説を「全く根拠のない巷間の浮説」(藤原稜三)と一刀両断する研究者もいる同上、42頁。
手(ティー)の時代
古くは16世紀、命を狙われた京阿波根実基(きょうあはごんじっき)が空手(くうしゅ)にて相手の股間を蹴り上げたとの記述が正史『球陽』にあるが、この空手が何らかの格闘技であったのか、それとも単に素手の意味に過ぎないかについては、賛否両説がある。
17世紀の武術家としては、池城安頼、また湖城流の流祖とされる蔡肇功などが知られているが、彼らがいかなる武術を使っていたかについて、詳しい話は伝わっていない。このように、17世紀までの琉球の格闘技については、実態がはっきりしないというのが実情である。明確に、手(ティー)の使い手として、多くの武人の名が挙がるのは18世紀に入ってからである。西平親方、具志川親方、僧侶通信、渡嘉敷親雲上、蔡世昌、真壁朝顕などの名が知られている。
また、土佐藩の儒学者・戸部良煕が、土佐に漂着した琉球士族より聴取して記した『大島筆記』(1776年)の中に、先年来琉した公相君が組合術という名の武術を披露したとの記述があることが知られている。この公相君とは、1756年に訪れた冊封使節の中の侍従武官だったのでないかと見られており、空手の起源をこの公相君の来琉に求める説もあるが、組合術とは空手のような打撃技ではなく、一種の柔術だったのではないかとの見解もあり藤原稜三『格闘技の歴史』640頁参照。、推測の域を出ていない。
唐手(トゥーディー)の時代
松村宗棍遺訓。武芸を三段階に分けて、型偏重(学士の武芸)を戒め、臨機応変の大切さを説き、武芸の目的はおのれのためではなく、国王や両親を守る(忠孝)ためにある(武道の武芸)と説く。
19世紀になると、唐手という名称が使われ出す。しかし、唐手と「手」の相違は判然としない。明治初頭の頃まで、唐手以前の「手」は特に沖縄手(おきなわて、ウチナーディー)と呼ばれ、唐手とは区別されていたとされるが船越義珍『愛蔵版 空手道一路』95頁参照。、両者の間にどのような相違があったのかは不明である。19世紀以降の唐手の使い手としては、首里では佐久川寛賀とその弟子の松村宗棍、盛島親方、油屋山城、泊では宇久嘉隆、照屋規箴、那覇では湖城以正、長浜筑登之親雲上などである。
この中でも、特に松村宗棍は「琉球の宮本武蔵」とも言われ、琉球王国時代の最も偉大な空手家と言われている。琉球国王の御側守役(侍従武官)の職にあり、国王の武術指南役もつとめたと伝えられる。
また、この頃から、薩摩を経由して伝来した日本武術も、唐手の発展に影響を及ぼしたとされる。琉球王国末期になると、琉球士族の一部には、薩摩の在番役人から示現流剣術やその分派の剣術を修業する者もあり、松村宗棍のように、実際に薩摩に渡って示現流を修業してくる者もいた。空手の「巻藁突き」は、示現流の「立木打ち」からヒントを得たとも言われている。
また、空手の一撃必殺を追求する理念にも、示現流の影響があるという説もある。
さて、空手に流派が登場するのは、空手が本土に伝えられた大正末期以降である。それ以前は、空手の盛んだった地域名から、単に首里手、泊手、那覇手の三つに、大まかに分類されていたにすぎない。もっとも首里士族の中には首里手以外に、泊手や那覇手も同時に習っていた例もあり、この分類もあまり厳密に受け取るべきではないと言えよう。
廃藩置県後
唐手(からて)の公開(明治時代)
唐手の近代化を進めた糸洲安恒。唐手を失伝の危機から救い、その普及に尽力した。
元来、琉球士族の間で密かに伝えられてきた唐手であるが、明治12年(1879年)、琉球処分により琉球王国が滅亡すると、唐手も失伝の危機を迎えた。唐手の担い手であった琉球士族は、一部の有禄士族を除いて瞬く間に没落し、唐手の修練どころではなくなった。不平士族の中には清国へ逃れ(脱清)、独立運動を展開する者もいた。開化党(革新派)と頑固党(保守派)が激しく対立して、士族階層は動揺した。
このような危機的状況から唐手を救ったのが、糸洲安恒である。糸洲の尽力によって、唐手は明治38年(1905年)、沖縄県立第一中学校(現・首里高等学校)および沖縄県師範学校の体育科に採用された。その際、読み方も「トゥーディー」から「からて」に改められた。唐手は糸洲によって一般に公開され、また武術から体育的性格へと変化することによって、生き延びたのである。糸洲の改革の情熱は、型の創作や改良にも及んだ。生徒たちが学習しやすいようにとピンアン(平安)の型を新たに創作し、既存の型からは急所攻撃や関節折りなど危険な技が取り除かれた。
このような動きとは別に、中国へ渡った沖縄県人の中には、現地で唐手道場を開いたり、また現地で中国拳法を習得して、これを持ち帰る者もいた。湖城以正、東恩納寛量、上地完文などがそうである。
本土へ(大正時代)
外国人ボクサーを一撃で倒した本部朝基。空手の真価を実力でもって証明し、空手の存在を一躍全国に知らしめた。
船越義珍。本土において初めて空手を本格的に指導し、また史上初の空手書の出版などを通じて、その普及に尽力した。
最近の研究によれば、最初に本土へ唐手を紹介したのは、明治時代に東京の尚侯爵邸に詰めていた琉球士族たちであったと言われている藤原稜三『格闘技の歴史』657頁参照。。彼らは他の藩邸に招かれて唐手を披露したり、揚心流や起倒流などの町道場に出向いて、突きや蹴りの使い方を教授していた。
しかし、本格的な指導は、富名腰義珍(後の船越義珍)や本部朝基らが本土へ渡った大正以降である。大正11年(1922年)5月、文部省主催の第一回体育展覧会において、富名腰は唐手の演武を行った。これが本土における、公の場での初めての唐手の披露であった。この時の演武は、柔道の嘉納治五郎など、本土の武道家の注目を大いに引いた。翌6月にも、富名腰は講道館に招かれて、嘉納治五郎をはじめ200名を超える柔道有段者を前にして、唐手の演武と解説を行った。富名腰はそのまま東京に留まり、唐手の指導に当たることになった。
同じ頃、関西では本部朝基が唐手の実力を世人に示して、世間を驚嘆させた。同年11月、たまたま遊びに出かけていた京都で、本部はボクシング対柔道の興行試合に飛び入りで参戦し、相手のロシア人ボクサーを一撃のもとに倒した。当時52歳であった。この出来事は新聞や雑誌で大いに取り上げられ、それまで本土では一部の武道家のみに知られていた唐手は、一躍全国に知られるようになったと言われている。本部は翌年から関西方面で唐手の指導を始めた。船越や本部の活動に刺激されて、大学では唐手部の創設が相次いだ。
沖縄では、大正13年(1924年)、「唐手研究倶楽部」が設立され、大正15年(1926年)には「沖縄唐手倶楽部」へと発展しながら、在沖縄の唐手の大家が一堂に会して、唐手の技術交流と共同研究の試みが行われた。参加者は花城長茂、本部朝勇、本部朝基、喜屋武朝徳、知花朝信、摩文仁賢和、宮城長順、許田重発、呉賢貴など、そうそうたる顔ぶれであった。
空手道の誕生(昭和初期)
本土で活躍する空手の大家が一堂に会した写真。左から、遠山寛賢(修道館)、大塚博紀(和道流)、下田武(船越高弟)、船越義珍(松濤館流)、本部朝基(本部流)、摩文仁賢和(糸東流)、仲宗根源和(空手研究社)、平信賢(保存振興会)。東京、1930年代。
昭和に入ると、摩文仁賢和、宮城長順、遠山寛賢らも本土へ渡って、唐手の指導に当たるようになった。昭和8年(1933年)、唐手は大日本武徳会から、日本の武道として承認された。これは沖縄という一地方から発祥した唐手が晴れて日本の武道として認められた画期的な出来事だったが、一方でこの時、唐手は「柔道・柔術」の一部門とされ、唐手の称号審査も柔道家が行うという屈辱的な条件を含んでいた。
昭和4年(1929年)、船越義珍が師範を務めていた慶應義塾大学唐手研究会が般若心経の「空」の概念から唐手を空手に改めると発表し、昭和9年(1934年)には大日本武徳会において、空手という名称が正式に承認された。さらに、日本の他の武道と同じように「道」の字をつけ、「唐手術」から「空手道」に改められた。このような改称の背景には、当時の軍国主義的風潮への配慮(唐手が中国を想起させる)もあったとされている。なお、空手の表記は、花城長茂が、明治38年(1905年)から使用していたことが明らかとなっている。
本土の空手は、大日本武徳会において柔道の分類下におかれていたこともあり、差別化のために取手(トゥイティー)と呼ばれた柔術的な技法を取り除き、打撃技法に特化した。また、併伝の棒術や節棍術(ヌンチャクなど)などの武器術も取り除かれた。型の立ち方や挙動を変更し、型の名称も、新たに日本風の名称に改める流派もあった。さらに、沖縄から組手が十分に伝承されなかったため、本土で新たな組手を付加し、こうして現在の空手道が誕生した。これらの改変については、本土での空手の普及を後押ししたとの評価がある一方で、空手の伝統的なあり方から逸脱したとの批判もある。
戦後
武道禁止令と活動再開
連合国占領期に連合国軍最高司令官総司令部の指令によって、文部省から出された「柔道、剣道等の武道を禁止する通達」のため、空手の活動は一時、停滞した。しかし、この通達には「空手」の文字が含まれていなかったため、空手は禁止されていないとの文部省解釈を引き出して、空手は他武道よりも、早期に活動を再開することができた。
全国組織と競技空手の誕生
現在の寸止め空手の試合風景
世界空手道連盟
空手の競技化(試合化)は戦前から試みられていたが、試合化そのものを否定する考えもあり、組織的な競技化は実現していなかった。しかし、戦後の昭和25年(1950年)、全日本学生空手道連盟が結成され、昭和32年(1957年)に全日本学生空手道連盟主催で伝統派(寸止め)ルールによる「第1回全日本学生空手道選手権大会」が開催された。同年には、日本空手協会主催により日本最初の「全国空手道選手権大会」が開催された。
昭和37年(1962年)には、山田辰雄が後楽園ホールで、グローブを着用した「第一回空手競技会」を開催して、のちのフルコンタクト空手に先駆けて直接打撃制試合を行った。
昭和39年(1964年)には、全日本空手道連盟(全空連)が結成された。昭和44年9月(1969年)、全空連主催による伝統派(寸止め)ルールの「第1回全日本空手道選手権大会」が日本武道館で開催された。そして、同年同月、伝統派空手に疑問を抱き、独自の理論で直接打撃制の空手試合を模索していた極真空手創始者の大山倍達(おおやま ますたつ)によって、防具を一切着用しない、素手、素足の直接打撃制(足技以外の顔面攻撃禁止制)による第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会が代々木の東京体育館で開催され空手界に一大旋風を巻き起こした。一方の全日本空手道連盟は翌年、第1回世界空手道選手権大会を開催した。
流派の乱立と空手の多様化
このように、空手の全国化・組織化は着実に進んでいった。しかし、その一方で、もともと流派、会派などが存在しなかったと言われていた空手界であったが、大日本武徳会を機に流派、会派など増え始めていった。昭和23年(1948年)、東京では船越義珍の門弟たちによって日本空手協会(松濤館流)が結成され、昭和32年(1957年)4月10日、日本空手協会を社団法人として文部省が認可した。しかし昭和33年(1958年)には早くも廣西元信たちが戦前からの松濤会を復活させ、独立していった。分裂、独立については、ほかの流派も事情は似たり寄ったりであった。遠山寛賢のように、無流派主義を標榜する空手家もいたが、多数にはなり得なかった。
また、全空連の試合規則、いわゆる「寸止め(極め)」ルールに対する不満などから、大山倍達の極真会館に代表されるような、フルコンタクト空手という、直接打撃制スタイル(顔面攻撃を除く)を採用する流派もあらわれ、一大勢力を形成するようになった。しかし、大山倍達が存命中は一枚岩と言われていた極真会館もまた、大山の死後、極真を名乗る複数の団体に分裂したり独自会派を立ち上げる者が多数出現することになる。そして、極真出身の大道塾空道に代表されるような、打撃技に特化された現在の空手へのアンチ・テーゼとして、空手に関節技や投げ技を取り入れて、かつての空手がそうであった、総合武道の姿へと復元を目指す流派などもあらわれた。